おおつうしん けいじばん
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    過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。

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    馬場にある義仲寺(3月撮影)

    1691年9月28日(元禄4年)
    松尾芭蕉が三年越しの大津生活をとじ、木曾塚の草庵を出て江戸に向かう 『芭蕉書簡集』


    松尾芭蕉が木曾塚(義仲寺)の草庵を出て、江戸に向かった日。

    7月から木曾塚の庵に滞在。
    8月14日に大津楚江亭、15日に木曾塚、16日には堅田成秀亭で月見の会に参加。
    9月中旬に京都へ行き、9月23日に木曾塚へ戻り、28日に江戸に出発したそうです。

    松尾 芭蕉(まつお ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。

    蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

    芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』がある。

    (中略)

    元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた。

    「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った

        初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)

    に由来する。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。

    芭蕉は10月29日に江戸に戻った。


    義仲寺(木曾塚)には松尾芭蕉の墓があります。
    義仲寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。

    寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。

    戦国時代に荒廃したが、天文22年(1553年)頃、近江守・佐々木氏によって再興された。
    当初は石山寺の配下であったが、江戸時代には園城寺に属した。


    俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。
    無名庵で句会も盛んに行われた。

    大坂で亡くなった芭蕉だが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により義仲墓の横に葬られた。

    又玄(ゆうげん)の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名。

    その後、再び荒廃した同寺だが、京都の俳僧蝶夢が数十年の歳月をかけて中興する。
    1793年には盛大に芭蕉百回忌を主催した。だが昭和期、敗戦後にまた荒廃壊滅の危機に瀕する。
    1965年(昭和40年)に再興された折に園城寺・三井寺円満院より独立し、単立の寺院となった。再建資金は、篤志家の寄進による。




    関連リンク
    義仲寺 | 滋賀県観光情報
    1691年 - Wikipedia


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