2月4日【今日は何の日?】1435年 山門使節の金輪院弁澄・円明坊兼覚・月輪院慶覚が捕えられ、将軍足利義教の命により処刑される




過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
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足利義教像

1435年2月4日(永享7年)
山門使節の金輪院弁澄・円明坊兼覚・月輪院慶覚が捕えられ、将軍足利義教の命により処刑される 『看聞御記』

延暦寺との抗争

もともと天台座主であった義教は還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。永享5年(1433年)に延暦寺山徒は幕府の山門奉行飯尾為種や、光聚院猷秀らに不正があったとして十二か条からなる弾劾訴訟を行った。満済や管領細川持之が融和策を唱えたため、義教は為種や猷秀を配流することで事件を収めた。しかし山徒は勝訴の勢いにのり、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて比叡山側は降伏し、一旦和睦が成立した。

しかし翌年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。さらに11月には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。延暦寺側が降伏を申し入れ、管領細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。

しかし義教は本心では許しておらず、同7年(1435年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。

炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。

足利義教 – Wikipediaより

関連リンク
足利義教 – Wikipedia
看聞日記 – Wikipedia

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