6月12日【今日は何の日?】後鳥羽上皇軍が、三穂崎(三保が崎)・勢多・供御瀬(瀬田川洗堰付近)・宇治・淀などに諸将を派遣し鎌倉幕府軍の上洛に備える

    過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。

    1221年6月12日(承久3年)
    後鳥羽上皇軍が、三穂崎・勢多・供御瀬・宇治・淀などに諸将を派遣し、幕府軍の上洛に備える 『吾妻鏡』『承久記

    同年5月15日頃から始まった「承久の乱」の終盤。後鳥羽上皇が鎌倉幕府軍の上洛に備えた日。

    大津市内では、三井寺のちかくの三穂崎(三保が崎あたり)・勢多(瀬田唐橋あたり)・供御瀬(瀬田川洗堰あたり)に布陣し、幕府軍の上洛に備えたみたいです。

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争であった。鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の、一つの帰結であったとされる。争いの呼称は、承久の変、また第三者の視点で承久合戦ともいう。

    日本史上初の朝廷武家政権の間で起きた武力による争いである。

    乱の経過

    美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が災いしたか、比叡山延暦寺は衆徒の微力では東士の強威を防ぎ難いとしてこれを拒絶した。(6月10日)

    やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家の坊門忠信一条信能高倉範茂や僧の尊長も大将軍として参陣した。(6月12日頃)

    6月13日、京方と幕府軍は衝突した。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功した。その後、京方は潰走し、大江親広は逢坂関の東の関寺付近で行方をくらました。

    承久の乱 – Wikipedia

    瀬田唐橋では、山田重忠が率いる京軍が幕府軍を迎え撃ったそうです。

    山田 重忠(やまだ しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将御家人山田重満の次男。仮名は二郎。史料によっては重広、重定、重貞と記されるほか、泉重忠とも呼ばれる。承久の乱で宮方の武将として活躍した。

    京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山山法師勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。

    幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の主上に騙られて、無駄死ぞ!」と門を叩いて悲憤した。

    山田重忠 – Wikipedia

    2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最終回の時期の出来事です。
     LINK:NHKオンデマンド | 鎌倉殿の13人 (48)「報いの時」(最終回)

    関連リンク
    承久の乱 – Wikipedia
    1221年 – Wikipedia

    その他の今日の出来事
    2011年-おごと温泉観光公園来場者5万人達成
    1934年-出動軍人後援会大津支部が市役所で創立総会を開き、大津市長を会長に選出する
    1819年-近江国が美濃から京都にいたる大地震にみまわれ、本堅田村では祥瑞寺などに被害が出る

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