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    7月6日【今日は何の日?】石川忠総が膳所城主になる

    過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。

    石川忠総が書いた『石川忠総留書』(国会公文書館デジタルアーカイブ)PD

    1634年閏7月6日(寛永11年)
    石川忠総が下総国佐倉(千葉県)から膳所城へ移封される 『寛政重修諸家譜』

    石川忠総が膳所藩主になった日。石川忠総の『石川忠総留書』は、徳川家康の伊賀越えなどの史料となっています。

    石川 忠総(いしかわ ただふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名大久保忠隣の次男。外祖父・石川家成の家を継ぎ、家成流石川家3代として美濃大垣藩の第3代藩主豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩の初代藩主を務めた。なお、『石川忠総留書』の著者でもある。

    石川忠総 – Wikipedia

    膳所藩主になった石川忠総は「膳所焼」の発展に尽力したみたいです。

    膳所焼(ぜぜやき)とは、滋賀県大津市にて焼かれる陶器。茶陶として名高く、遠州七窯の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。

    歴史

    1621年、膳所藩主となった菅沼定芳が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う。また、膳所藩領内で安土桃山時代から江戸時代初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市)の陶器、1620年代には築窯されていたとされる。)・勢多焼国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼雀ケ谷焼瀬田焼の総称としても用いられている。

    菅沼定芳は、膳所藩主となった後の1629年、相模川左岸に御用窯を築き、本阿弥光悦小堀遠州松花堂昭乗との交友に影響を受け茶器を焼いたと言われている。

    菅沼定芳移封後の1634年、新たに石川忠総が膳所藩主となった。石川忠総の父、大久保忠隣は、小堀遠州の師であった古田織部門下の大名茶人であり、石川忠総も小堀遠州と親交が深かったことから小堀遠州の指導を受け茶器に力を注いだ。膳所焼は遠州七窯の一つとして評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、膳所焼の隆盛は石川忠総治世時に留まり、1651年2月、石川忠総が死去し、1651年6月、後継の石川憲之伊勢亀山藩に移封されると、膳所焼は徐々に衰退していった。

    膳所焼 – Wikipedia

    現在、大津市中庄1丁目に「膳所焼美術館」があります。

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