5月4日【今日は何の日?】室町幕府第12代将軍の足利義晴が穴太で没する

    過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。

    足利義晴像紙形・京都市立芸術大学芸術資料館蔵(土佐光茂筆)1550年 PD

    1550年5月4日(天文19年)
    前将軍足利義晴が穴太で没する 『万松院殿穴太記』

    室町幕府第12代将軍(在職1522年~1546年)の足利義晴が穴太で亡くなった日。

    足利 義晴(あしかが よしはる)は、 室町幕府の第12代征夷大将軍(在職:大永元年〈1522年〉 – 天文15年〈1546年〉)。第11代征夷大将軍・足利義澄の長男(または次男)。

    最期

    天文18年暮以降、義晴は「水腫張満」という全身がむくんだ状態の病に臥して、翌年の天文19年(1550年)正月になっても病状が改善しなかった。

    天文19年2月、義晴は京都奪還を目論み、東山の慈照寺の近くに中尾城を築いた。

    3月7日、義晴は坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動し、4月には京と近江を結ぶ北白川にも城塞を築いた。だが、この頃になると、義晴は病が重くなって動けなくなっていた。

    5月4日辰の刻(午前8時頃)、義晴は冬から患っていた悪性の水腫により、穴太にて死去した(『言継卿記』『厳助大僧正記』『長享年後畿内兵乱記』)。享年40(満39歳没)。

    足利義晴 – Wikipedia

    大津市穴太2丁目には足利義晴の供養塔があります。

    足利義晴の供養塔
    供養塔の説明看板
    供養塔は黒橋川地蔵堂の裏手にあります

    この記事が気に入ったら
    いいね または フォローしてね!

    コメント

    コメントする

    目次