6月14日【今日は何の日?】1221年 後鳥羽上皇軍が宇治・淀・勢多で鎌倉幕府軍に敗れる

    過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。

    1221年6月14日(承久3年)
    後鳥羽上皇軍が宇治・淀・勢多で幕府軍に敗れる 『吾妻鏡

    6月12日の続き。後鳥羽上皇軍が宇治・淀・勢多で鎌倉幕府軍に敗れた日。

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争であった。鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の、一つの帰結であったとされる。争いの呼称は、承久の変、また第三者の視点で承久合戦ともいう。

    日本史上初の朝廷武家政権の間で起きた武力による争いである。

    乱の経過

    6月13日、京方と幕府軍は衝突した。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功した。その後、京方は潰走し、大江親広は逢坂関の東の関寺付近で行方をくらました。

    『吾妻鏡』によると、15日に藤原秀康、三浦胤義らが四辻殿に参上して宇治・瀬田での敗戦と鎌倉武士が大挙入京する形勢であることを奏聞した。一方、慈光寺本『承久記』によると、14日夜には敗走した京方の三浦胤義、山田重忠らは最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、後鳥羽上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。幕府軍は京へ雪崩れ込み、寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。

    15日に後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして北条義時の追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す。後鳥羽上皇に見捨てられた三浦胤義は東寺に立て篭もって抵抗し、兄の三浦義村の軍勢に決戦を挑んで、奮戦し自害した。山田重忠も幕府軍と激しく戦った後、落ち延びた先の嵯峨般若寺山で自害。藤原秀康は逃亡し、10月に河内国において幕府軍の捕虜となった。

    戦後処理

    7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国備前国へ配流された。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡明治以降)は廃され、後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の皇子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。

    承久の乱 – Wikipedia

    関連リンク
    承久の乱 – Wikipedia
    鎌倉幕府 – Wikipedia
    1221年 – Wikipedia

    その他の今日の出来事
    1336年-足利直義が園城寺衆徒に瀬田の渡船調達を命じる
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