過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
671年10月17日(天智天皇10年)
病臥した天智天皇が皇太弟大海人皇子をよんで後事を託すが、大海人はこれを断り、内裏の仏殿で出家し、ついで吉野へ隠退する 『日本書紀』
第38代天皇の天智天皇は息子の大友皇子に皇位を継がせようとしていた。
近江大津宮で病に伏せていた天智天皇は、大きな影響力を持つ弟の大海人皇子の真意を探るため、大海人皇子に皇位を継いでほしいと頼んだが、これを断られた日。
のちに、大友皇子は第39代天皇の弘文天皇に即位。
壬申の乱を経て、大海人皇子は第40代天皇の天武天皇になってます。
671年9月、天智天皇は病気に倒れた。
なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。
12月3日、天智天皇は近江大津宮で崩御した。
天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。
蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。
天智天皇4年(671年)に天智天皇が病気によって重態となった際、大海人皇子(後の天武天皇)を病床に呼ぶための使者を務める。
しかし、安麻呂は以前より大海人皇子と親しくしていたことから、「有意ひて言へ」(よく注意してお話なさいませ)と大海人皇子に忠告した。
この安麻呂の一言により、大海人皇子は天智天皇からの譲位の申し出を辞退して出家し、吉野に脱出することができたという。
同年12月に天智天皇が崩御し、翌年の「壬申の乱」へと続きます。
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇10年10月17日、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。
その後、天智天皇は病に臥せる。
大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。
関連リンク
■天武天皇 – Wikipedia
■671年 – Wikipedia
その他の今日の出来事
2002年-天然ガススタンド「大津エコ・ステーション」竣工式
906年-宇多法皇が延暦寺に参詣、増命の天台座主就任を祝う
862年-滋賀郡司大友村主黒主らが、円珍に大友氏の氏寺園城寺を寄進して、同寺の復興をはかるという
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