過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
1789年2月21日(寛政元年)
堅田藩主堀田正敦が、藩財政逼迫(ひっぱく)に際し、家臣に自筆の倹約布告を出す 『辻俊家文書』
この年は堅田村を水害が襲い、堅田藩の財政状態が逼迫されたそうです。そのため、藩主主導の「倹約布告」が出されました。倹約は5年間続いたみたいです。
堀田 正敦(ほった まさあつ)は、江戸時代中期から後期の大名。近江堅田藩、後に下野佐野藩の藩主。江戸幕府の若年寄。堀田家正高流分家6代。陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男。
堀田正敦 – Wikipedia
堅田藩の陣屋(藩庁)はこのあたりにありました第6代藩主・堀田正敦は陸奥国仙台藩主・伊達宗村の八男であり、その経緯から若年寄、湯島聖堂再建の副奉行、『寛政重修諸家譜』などの編纂を務めるなど文教政策に携わっている。文化3年(1806年)には3,000石を加増され、1万3,000石の所領を領することとなった。なお、正敦は仙台藩の藩主に若年藩主が相次いだため、その補佐役も務めている。藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。
正敦は文政8年(1825年)4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩は廃藩となった。堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。
堅田藩 – Wikipediaより
こちらのリンク先に堅田陣屋の説明や案内看板などの写真があります。
LINK:近江・堅田陣屋(城郭放浪記)
堅田藩の最後の藩主となった堀田正敦は、松平定信の「寛政の改革」に協力したり、鳥類分類図鑑「観文禽譜」を作ったりと色々されたそうです。
『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 – 1801年)に江戸幕府が編修した系譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)に完成した。
寛政年間に幕政においては老中・松平定信の主導する寛政の改革が実地され、幕府初期の精神に立ち戻るため文教振興が行われていた。『寛政譜』の編纂は定信とも交流のあった近江堅田藩主で若年寄の堀田正敦が発案し、寛政11年(1799年)に正敦を総裁として、林述斎らが中核となって編纂された。各大名家・旗本からの提出記録を元に、校訂が行われた。国主・領主をはじめ御目見以上の士について、寛政10年(1798年)までの事跡を記す。
寛政重修諸家譜 – Wikipedia
『禽譜』(きんぷ、堀田禽譜)・『観文禽譜』(かんぶんきんぷ)は鳥類分類図鑑で、鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する。堀田禽譜には、同時期に編纂された解説書の解説に対応する鳥類の図が収録されており、『観文禽譜』から抜粋された解説が付けられていることから、『観文禽譜』の図譜部であるとも考えられている。
400以上の種の外観図や生態的な記述が網羅されており、中には現在では都市開発による人為的破壊などによる生息地の変化や絶滅などによって知ることのできない種も収録されていることから、当時の鳥類の生態などを知る上で重要な史料になっているとともに、西洋でも研究が始まって間もない18世紀にこれだけの研究成果を遺している江戸時代の学問水準の高さを今に伝えている。
堀田正敦 – Wikipediaより
関連リンク
■堅田藩 – Wikipedia
■堀田正敦 – Wikipedia
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