過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
天智天皇:古今偉傑全身肖像(1899年ごろ)PD
667年3月19日(天智天皇6年)
中大兄皇子が都を近江大津宮に移す 『日本書紀』
中大兄皇子(後の第38代天皇 天智天皇)が近江大津宮に遷都した日。
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩御後に朝廷の指導者となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
背景
斉明天皇6年(660年)、百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。倭国(後の日本)にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。
百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。
遷都
このような状況下で、天智天皇6年(667年)3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(668年)1月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令(おうみりょう)が制定されたともいわれる。 なお、この遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。また、大津を遷都先に選んだ理由については、対外関係上の危機感が強く働いていたと思われる。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためとする説がある。日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。
近江大津宮 – Wikipedia
大津宮があったとされているのはこのあたり。
なお、天智天皇陵(お墓)は京都市山科区にあります。
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関連リンク
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■大津京年表
■近江大津宮錦織遺跡|歴史事典|大津市歴史博物館
■近江大津宮錦織遺跡 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
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667年-中大兄皇子が都を近江大津宮に移す
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