過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
1943年4月15日(昭和18年)
大津陸軍少年飛行兵学校が別所の陸軍病院跡に新設され、開校式が行なわれる 『朝日新聞滋賀版』
大津市別所で大津陸軍少年飛行兵学校の開校式が行なわれた日。太平洋戦争末期、大津市内に陸軍海軍あわせて3ヶ所あった航空訓練基地のひとつです。(他はJR唐崎駅前の滋賀海軍航空隊と、際川の陸上自衛隊大津駐屯地あたりの大津海軍航空隊)
大日本帝国陸軍歩兵第九連隊の第一大隊・第二大隊・機関銃中隊の兵舎を利用して開校。この兵舎は陸軍少年飛行兵学校の前は陸軍病院だったそうです。
校訓 至誠 純真 元気 周到(2015年頃撮影)
1943年(昭和18年)4月、東京陸軍航空学校は東京と大津の各陸軍少年飛行兵学校へ改編され、少年飛行兵となる生徒を毎年2回入校させ約1年間の基礎教育を行い、その後に宇都宮・熊谷の各陸軍飛行学校(操縦)、所沢・岐阜の各陸軍航空整備学校(技術)、陸軍航空通信学校(通信)で分科に応じた専門技術教育を行うよう定められた。
陸軍少年飛行兵 – Wikipedia
大津市歴史博物館の裏に、若鷺の碑(大津陸軍少年飛行兵学校跡碑)があります。
大津陸軍少年飛行兵学校は、太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年十月、航空戦力増強の要請に応じ、東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、翌十八年四月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。
当時十五・六歳の少年たちは、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、「至誠・純真・元気・周到」の校風のもと、炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として徹底した一ヵ年の基礎訓練に励んだ。その数、第十五期生から第二十期生に至るまで八千有余人。
ついで、操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に南溟の果てに、本土防衛のさきがけとなつて愛機と生死を共にした。
昭和二十年八月、戦いは終り、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、本校もまたその歴史を閉じた。
往時茫々、戦後三十年。教えし者、教えられし者相つどい、かつて青春のすべてを抛げうつた思い出深きこの地に、永遠の平和を願つて、茲に「若鷲の碑」を建立する。
昭和五十年十月十二日
大津陸軍少年飛行兵学校 関係者一同
関連リンク
■大津れきはく日記 : 陸軍少年飛行兵学校の日の丸の寄せ書き
■1943年 – Wikipedia
その他の今日の出来事
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