過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
1582年6月15日(天正10年)
羽柴秀吉軍が明智秀満の守る坂本城を攻め落とす(坂本城焼亡)『多聞院日記』
羽柴秀吉軍が明智秀満(明智左馬助)の守る坂本城を攻め落とし、坂本城が焼亡した日。坂本城はこのあと丹羽長秀によって再建されますが、1586年に廃城になっています。
坂本城(さかもとじょう)は、近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本)にかつて存在した日本の城。明智光秀の居城として築かれ、琵琶湖に面する平城。遺構は市街地化によりほぼ消滅している。
沿革
天正10年(1582年)6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条新御所を攻城し、信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方、安土城の城主となっていた明智秀満は山崎の戦いでの敗戦を13日の夜に知り、14日未明、安土城から坂本城に移ってきたが[2]、羽柴秀吉方の堀秀政が城を囲む中、6月14日の夜、秀満は光秀の妻子を刺し殺し、自分の妻も刺殺し、自分は腹を切り、煙硝に火を放って自害したとされる(『川角太閤記』)[3]。
その後、秀吉に命じられた丹羽長秀が城を再建し城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次、そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。
1586年(天正14年)、秀吉の命を受けた長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、石垣等の資材は大津城築城に使用された為、遺構はほとんど残っていない。
坂本城 – Wikipedia
関連リンク
■坂本城 | 近江の城50選
■坂本城址碑 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
その他の今日の出来事
2013年-国道161号線西大津バイパス全線4車線化開通
2004年-古都保存法に基づき、市の歴史的風土保存区域を国が指定
1992年-瀬田東市民センターがオープン
1991年-瀬田北市民センターがオープン
1960年-江若バスの堅田-細川(葛川)間の運行が始まる
1954年-滋賀会館が県庁前に開館する
1398年-足利義満が田上中庄領家識を北野社(京都市上京区)に寄進する
コメント