過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
1570年11月24日(元亀元年)
織田信長と六角承禎(義賢)との和睦が成立し、この日、宇佐山城で会見する 『言継卿記』
「第一次信長包囲網」の終盤のお話。
第一次包囲網
浅井氏、三好三人衆、荒木氏、一向衆の叛旗
上洛した信長は、征夷大将軍・足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促したが、朝倉義景はこれを無視し、両者の関係は悪化した。また、近年の説として、永禄11年(1568年)に朝倉義景が若狭国を制圧して国主の武田元明(母は義昭の姉妹)を連行して同国を支配下に置いたことにより、義昭と義景の関係も悪化していたことも指摘されている[4]。
元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉氏の越前へ遠征を行うが、北近江の浅井長政の裏切りにより撤退する(金ヶ崎の戦い)。
同年6月、信長は野洲河原の戦いにて、甲賀から北上し湖南に進出した六角義賢・義治父子を退けた。
同年6月末、信長は徳川家康と共に姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り、近江南部の支配権を確立し、近江北部も窺うようになった。また、この姉川の戦いの結果、横山城が陥落したこともあり、浅井・朝倉軍は琵琶湖東岸を南下することは困難となった。
しかし、同年6月19日、三好三人衆の1人三好長逸に通じた摂津の荒木村重が、池田城から主君・池田勝正を追放してしまう。これにより、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田城、福島城を拠点に反織田の兵を挙げる。
同年8月、信長は三人衆を討つため足利義昭を奉じて摂津へ遠征し、野田城・福島城の戦いが発生した[5]。この戦いは終始信長・義昭優勢で進み三好三人衆は和議を結ぼうとするほどであったが、戦の最中の9月13日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆につき織田軍を攻撃、更に、浅井・朝倉軍が琵琶湖西岸を南下、信長の重臣森可成と弟信治が交戦するも敗死した。先行して京の様子を伺っていた柴田勝家から火急の報を受けた織田信長は浅井・朝倉軍に対処すべく、同9月23日、三人衆の討伐を諦め、摂津からの撤退を開始する。同27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めている。
織田信長と比叡山延暦寺に篭った浅井・朝倉軍との対陣は年末まで続き(志賀の陣)、加えて顕如の命を受けて北伊勢で蜂起した伊勢長島一向一揆衆に、信長の弟信興が討たれるなど、織田家は各地で反信長勢力との戦闘を余儀なくされた。
同年10月30日、織田信長は本願寺顕如との和睦に成功する。11月には六角義賢・義治父子と和睦。また、篠原長房とも松永久秀の仲介により篠原と松永の間で人質交換が行われ11月21日に和睦が成立[6]、織田信長は、一度は浅井・朝倉からの和議を拒絶し決戦を志すも、坂井政尚の戦死を受けて決定打を欠き、和睦へと動くことになった。比叡山との和睦の際に、朝廷と足利義昭が動く事態となっている。
参加勢力
信長包囲網 – Wikipediaより
- 本願寺(摂津、加賀) – 元亀元年(1570年)10月30日に和睦。
- 雑賀衆(紀伊) – 本願寺を支援。
- 六角義賢(近江) – 元亀元年(1570年)11月に和睦。
- 三好三人衆(摂津) – 元亀元年(1570年)11月21日に和睦。
- 篠原長房(阿波、讃岐、淡路) – 元亀元年(1570年)11月21日に和睦。
- 三好長治(阿波) – 篠原長房ともに畿内に上陸。
- 十河存保(讃岐) – 篠原長房ともに畿内に上陸。
- 安宅信康(淡路) – 篠原長房ともに畿内に上陸。
- 荒木村重(摂津) – 三好三人衆の上陸を支援。
- 池田知正(摂津) – 荒木村重と同調。
- 浅井長政(近江) – 元亀元年(1570年)12月に和睦。
- 朝倉義景(越前) – 元亀元年(1570年)12月に和睦。
- 延暦寺(近江) – 包囲網瓦解後も信長と対立を続ける。
- 筒井順慶(大和) – 信長方の松永久秀と対立を続ける。
宇佐山城は、現在の大津市南滋賀町にありました。
関連リンク
■宇佐山城 – Wikipedia
■六角義賢 – Wikipedia
■織田信長 – Wikipedia
■1570年 – Wikipedia
その他の今日の出来事
1397年-堅田と菅浦が漁場の四至牓示(境界標示)を定め、契約状をとりかわす
1096年-地震のため勢多橋が倒壊する
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