過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
足利義晴像(土佐光茂 画)1550年 PD
1527年2月14日(大永7年)
将軍 足利義晴・管領 細川高国が、細川晴元軍の先峰柳本賢治に敗れ、京都より山中越で坂本に逃れる 『二水記』
足利義晴・細川高国が「桂川原の戦い」で敗れ、京都から山中越えで坂本に逃れてきた日。
足利 義晴(あしかが よしはる)は、 室町幕府の第12代征夷大将軍(在職:大永元年〈1522年〉 – 天文15年〈1546年〉)[3]。第11代征夷大将軍・足利義澄の長男(または次男)。
大永7年(1527年)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。
天文3年(1534年)中に帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。
天文19年(1550年)3月7日には坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動したが、病が重くなって動けなくなった。そして5月4日、穴太にて死去した。享年40(満39歳没)。死因は悪性の水腫だったという。
足利義晴 – Wikipediaより
桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)は、大永7年2月12日(1527年3月14日)夜中から2月13日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。桂川の戦いとも言う。
戦後の状況
2月14日、高国は義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである。これが後に堺公方誕生の引き金ともなった。また、この戦いで打撃を受けた武田元光は若狭に退き、若狭武田氏は中央政治への影響力を低下させる一方、消極的な姿勢を見せた六角定頼は以降義晴を支えつつも高国方から晴元方に鞍替えしていき、六角氏は中央政治への影響力を上昇させることになった[1]。
桂川原の戦い – Wikipedia
関連リンク
■足利義晴 – Wikipedia
■細川高国 – Wikipedia
■桂川原の戦い – Wikipedia
■二水記 – Wikipedia
その他の今日の出来事
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