過去の大津の【今日】の出来事を紹介します。
ロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)(by イリヤ・レーピン)1896年 PD
1891年5月11日(明治24年)
ロシア皇太子ニコライが大津遊覧中に下小唐崎町で警備の巡査津田三蔵に斬りつけられて負傷する 『日出新聞』
大津事件と言われている出来事が起きた日。
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。湖南事件(こなんじけん)とも呼ばれる。
当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となったが収監の翌々月に死亡した。日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が引責辞任し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。
大津事件 – Wikipedia
ニコライ皇太子が襲われた大津市京町2丁目には「大津事件の碑」があります。
ニコライ2世(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) – 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 – 1917年3月15日)。愛称はニッキー。
大津事件
5月11日、大津に入り、琵琶湖の遊覧や園城寺、唐崎神社を見学した。しかし同日、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った(脳には届かなかった)。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。
ニコライはこの時のことを次のように日記に書いている。「人力車が人々が沿道にあふれている通りへ曲がった時、私は右耳の上に強い衝撃を感じた。振り返ると胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。とっさに私は『何をする』と叫んで道路に飛び降りた。醜い顔は私を追いかけてきたが、誰も止めようとしないので、私はやむなくその場から逃げた。群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは混乱して四散してしまったので、それも不可能だった。走りながら振り返ると私を追ってくる巡査の後ろからゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。更に60歩走ってもう一度振り返ると、ありがたいことに全て終わっていた。ゲオルギオスが竹の杖の一撃で狂人を倒していたのである。私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが狂人を取り押さえていた。一人が狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉につきつけていた。群衆は誰一人として私を助けようとしなかった。なぜ通りの真ん中に私とゲオルギオスとあの狂人だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う。」。
しかし津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、津田を取り押さえた一番の功労者はゲオルギオス王子ではなく、人力車の車夫だったという。確かに最初に津田に立ち向かったのはゲオルギオス王子であり、彼はその日お土産に買った竹の杖を武器にしていた。だがゲオルギオスの竹の杖は津田をひるませただけであり、ひるんだところを人力車の車夫たちが津田に飛びかかり、この時津田がサーベルを落とし、それを拾った車夫が津田の首筋と背中を斬りつけたのだという。ニコライも後に一応これを認めていたらしく、彼を助けた車夫の二人に勲章を送っている。だがニコライは毎年5月11日に行っていた大津事件記念礼拝においては感謝の意を日本人車夫にではなく、ゲオルギオスに捧げていた。
ニコライ2世 (ロシア皇帝) – Wikipedia
関連リンク
■大津事件・津田三蔵の新資料発見|大津市歴史博物館
■大津事件 – Wikipedia
■1891年 – Wikipedia
その他の今日の出来事
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